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日译中练习2篇(信长、秀吉、家康——凝视时代的风云变幻&家长制的解体)  

2012-07-17 18:23:54|  分类: 翻译练习 |  标签: |举报 |字号 订阅

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       第一篇是六月上旬时候译的,后来因为考试,就一直没时间继续练习,直到昨天才又开始。今天把两篇都做了一下修改和整理,先发出来当留个记录好了。我尽量保持一周一篇吧,但暑假始终有种惰性,没什么心思去练习和看书(小说和一些吸引人的书籍当然除外了,这里是指那种学术书)。

信长、秀吉、家康——凝视时代的风云变幻

人的一生,不过是生命的一个周期和历史平面上的一场偶然的相会,我们可以说人与历史局面是生死与共的。因此,一个人想活得更有价值,最重要的是要凝视历史的局面,与历史的发展共存。古今东西,历史上成名的英雄无一不是凝视时代的人。

正如大多数的植物具有群落的性质一样,我们人类亦有群落的性质。日本中世末期,平定战乱,建立起长达250年的幕藩体制的三个人——织田信长、丰臣秀吉、德川家康,用今天的说法来讲,他们全都是爱知县人。当然,这绝非偶然。爱知县内有一条东海道,镰仓时代至幕府体制瓦解之间的这段日本历史上,不曾有从东海道以外的地方站立起来的势力赢得天下。这表明,东海道从源赖朝(镰仓时代)以来,一直都是日本史上一条通往权力之巅的驿道。天下的霸权常常顺着联接天皇居住的京都和将军居住的东国(关东)的东海道往复交替。而爱知县位于东海道的中段,近京都,因而有着夺取天下的地利优势。

信长、秀吉、家康,三人之中首先夺取天下的是信长(1534~82年),假使信长没有夺取天下,家康和秀吉恐怕也不会有出世的机会。信长是个拥有敏锐的战术感觉、政治感觉的天才,在桶狭间之战中获得奇迹般的胜利后,他的势力急速扩大。他毫不费力就打破了中世时期的常识,颠覆了当时一切价值体系。火烧延历寺、镇压一向一揆、使石山(大阪)本能寺投降,这一切都在无言地印证着,织田信长是个堪称为破坏而生的人。然而,他的破坏是为了创造。信长在剿灭旧势力派的同时,还保护新生价值体系的基督教,以及活用洋枪大炮作战。活在破坏与创造之间的信长,却在49岁时被自己的家臣明智光秀所刺杀。

继信长的破坏后,秀吉(1536~98年)把恢复社会的安定与建设为己任。与打破常识,反对模仿,为创造而生的信长相反,秀吉学习信长这个天才的处事方法,在模仿信长的同时,他还努力用政治性手段弥补信长的缺点。例如,信长喜用破坏力强的火攻,而秀吉则喜用不易置人于死地的水攻。而且,秀吉还重视外交。生于农家的秀吉之所以能统一天下,少不了的是他那善于交际的“外交才能”和对利害关系敏感的“商业才能”。秀吉铸造货币,整顿市场制度。不仅如此,他还实施土地清查,确立基于土地制度的税制。但为人豪爽豁达,性格开朗的秀吉晚年时却陷入了狂妄自大之中。

掌握其后政权的家康(1542~1616年)是个忍耐力强的实业家。先有信长破坏旧体制,后有秀吉建立幕府新体制。家康继承并发展了前人的基业,他坚毅不屈,使幕府体制在他统治下变得固若金汤。家康的一生从他被家臣出卖开始。家康年幼时,3岁就与生母分别,6岁后的12年间一直作为人质被囚禁。他6岁时首先被送到今川家当人质,之后又被送到织田家,8岁时曾一度返回本家,随即又再次被送到今川家。家康的三河武士团在后来被称作模范武士团,以上下团结一心著称,想必这份团结也是他少年时期在悲惨的环境中与苦难相伴而得来的必然归结。与此同时,取得天下后的家康建立起彻底的封建体制,把日本国人分成各个阶级,并禁止人民在阶级间流动。他重用信赖关系深厚的谱代大名,而对待信赖关系薄弱的外样大名则毫不手软地排斥。家康之所以采取这种极端式的德川家中心主义统治,与他年幼时作为其他世家的人质而无家可归的过去不无关系,这可看作是他对悲惨少年时代的一种复仇。家康取得关原之战胜利(1600年)而成为征夷大将军后,为消灭秀吉的遗孤秀赖足足等待了15年的岁月。家康的一生,可谓忍耐的一生。

家康的遗训亦被人世代传颂:“人的一生犹如背负重负,走在前路漫漫的征途上,因而不必急于一时。时常想着自己身受束缚,把受束缚当作常态,便不必惧怕身上所加的束缚。心起欲望时,务必回想起穷困潦倒的昔日。记住愤怒是你的敌人,忍耐与宽容才是缔造万世基业的基础。只懂胜利的滋味,而不知失败的苦楚,其害终有一日会祸及自身。即使责怪自己也切勿把过错推卸给他人。时刻谨记做事‘不及’犹胜‘过度’。



信長 秀吉 家康――時代を見据える

人の人生は、ただひとつのライフサイクルとだ他ひとつの歴史的局面の偶然(ぐうぜん)の出会いであり、人は歴史的局面と生死を共にする。したがって、人がよりよく生きる上で何よりも大切なのは、歴史的局面を見据え、歴史の流れを共生することであろう。古今(こきん)東西、歴史上で名を成した英雄たちは、まさに時代を見据えた人たちであった。

多くの植物は群落の性質があるように、人間にも群落の性質がある。日本の中世末期の動乱を鎮め、その後250年に及ぶ幕藩体制を築いた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、いずれも、今で言えば、愛知県人であった。もちろん、これは偶然ではない。愛知県内には、東海道が通っている。鎌倉(かまくら)時代以後は幕末(ばくまつ)までの日本史で、東海道(とうかいどう)の沿道以外の場所から起こって天下を握ったものはいないことに現れているように、東海道は、源頼朝(みなもとのよりとも)(鎌倉時代)以来、日本史の権力街道であった。天皇の住む郷土と将軍の住む東国(とうごく)(関東)を結んで、天下を権力は常にこの街道を往復服(おうふく)した。愛知県は、東海道の中ほどにあり、京都に近く、天下を取る上で好条件であった。

信長·秀吉·家康の三人の仲から、最初にぬきんでたのは、信長(1534-82年)である。信長が出なかったら、家康や秀吉も歴史に名を残さなかったであろう。信長は戦術感覚、政治感覚において天才的であった。信長は桶狭間(おけはざま)の戦い(1560年)で奇跡的な勝利を得た後、急速に勢力を伸ばしていく。延暦寺(えんりゃくじ)を焼き討ちにし、一向一揆(いっこういっき)と戦い、石山(大阪)の本能寺を屈服させたことに示されているように、中世の常識をこともなく破り、中世のあらゆる価値体系を滅ぼした信長は、まさに、破壊に生きた人であった。そして、その破壊は創造のためであった。信長は、旧勢力の人間をどんどんつぶす同時に、新しい価値体系であるキリスト教を保護し、鉄砲を活用した。破壊と創造に生きた信長は、49歳でその過信、明智光秀によって暗殺されることになる。

秀吉(1536-98年)、信長が破壊した後の安定と建設が自分の仕事だと考えた。信長が常識を破り、模倣を嫌い創造に生きた天才であったのに対し、秀吉は、信長という天才のやり方を並び、そのやり方を模倣すると同時に、その欠点を、政治性によって埋めようとした。たとえば、信長は破壊力の強い火責め(ひぜめ)を好んだが、秀吉は、人名を余りそこなわない水攻め(みずぜめ)を好み、また、外交を重視した。農家に生まれた秀吉が、天下を統一できたのは、人との関係を保つ「外交の際」、理解関係に敏感な「商売の才」があったからであろう。秀吉は、貨幣を鋳造し、市場の制度を整えていく。それとともに、検地を行い、土地制度に基づく税制を確立する。豪壮闊達で陽性な秀吉は、晩年、誇大妄想(こだいもうそう)に陥った(おちいる)と言われる。

その後政権を握った家康(1542-1616年)は、忍耐強い(にんたいづよい)実務化であった。信長が破壊し、秀吉が築いた幕藩体制(ばくはんたいせい)の規則を、家康は、忍耐強く、確固(かっこ)たるものにしていった。家康の生涯は、家康に売られることから始まった。少年家康は3歳まで生母と生別した後、6歳からの12年間を囚われの身として過ごした。家康は、まず6歳で今川家に人質(ひとじち)として送られた後、織田家に送られ、8歳のときにいったん生家に戻り、その後すぐ、再び、今川家に送られたのである。家康の三河武士団は、後に、団結(だんけつ)の強さで武士団の模範とされることになるが、その団結力の強さは、少年時代の悲惨な環境の中で、苦労をともにしたことによる当然の帰結(きけつ)でもあったのだろう。それと同時に、天下を取ってからの家康が徹底的な封建体制をしき、日本人を階級を分けて、その階級から動くことを禁じ、信頼関係のあつい諸代大名を重要視し(じゅうようしし)、信頼関係の薄い外様大名(とざまだいみょう)を容赦(ようしゃ)なくつぶす極端な徳川家中心主義を取ったのは、「家えなき子」として常に他家(たけ)のめしを食ってきた悲惨な少年時代の繰り返しでもあったのだろう。家康は関ヶ原(せきがはら)の勝利「1600年」により征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となった後、秀吉の遺児秀頼(ひでより)を滅ぼすのに、15年の歳月を待っている。家康の生涯は、まさに、忍耐の生涯であった。「人の一生は重き荷を負うて、遠き道を行くが如し、急ぐべからず、不自由を常と思えば不足なし、心に望みおこらば困窮(こんきゅう)したるときを思い出すべし、堪忍(かんにん)は無事長久(ぶじちょうきゅう)の基、怒りは敵と思へ、勝つことばかり知りて負けることを知らざれな害その身に至る、己を攻めて人を攻めるな、及ばざるは過ぎたるにまされり。」家康の遺訓として知られている。


家长制的解体

今天,我们来谈谈“家长制的解体”。

在此之前,我们先来看看资料1的图表,它所表示的是日本离婚率的演变情况。一般而言,离婚率是随近代化的发展而逐渐增长的,但日本却例外,明治时代的离婚率比现在更高,进入昭和时代后还一直在下降。直至最近离婚率才有增长的倾向,但从国际水平上来说仍算不上高。

因此,常听到有人说日本的法律是不是对离婚的限制太严呢?其实完全没有这回事,倒不如说恰恰相反。日本有着“协议离婚”这项非常简便的离婚手续,9成以上的离婚申请者利用它就能简单地实现离婚。那离婚人数为什么那么少呢?是因为大多数夫妇都对婚姻生活感到幸福而满足,还是依旧对离婚抱有抵抗心理呢?

这个问题暂且一放,我们先来谈谈为什么明治时代离婚率会比现代高。我想,究其原因,与“家长制”的影响是必不可分的。所谓家长制,是一项近代以前,在家庭经济与商品经营尚未分离时的农业社会制度。然而在1896年,即明治29年时,这项近代以前的封建制度却由明治民法确立为法律制度。不过后来这项举措却被指阻碍了日本家庭和农村的近代化进程。

但是,这项制度在近代以前的社会里,不轮是在农村中还是在城市中都发挥了很大的作用。因为不管怎么说,它将家庭的全部财产交由长子一个人继承。继承过程中,长子将得到作为家长的绝对性特权,而且家中土地及财产也将完整保留,一代一代地通过长子传下去。我就以武士举例吧,武士的身份是不可分割的,但假如将领地、仆人均分给子女的话,最终只会造成武士家族的势力逐渐衰弱。这样的情况在当时的社会必须极力阻止。当然了,农民的耕地和房屋,以及商人的房屋、资本和店铺等商业财产是可以分配的,不过,尽管能将财产均分给二子、三子,但假如上一代不能大量增加财产的话,财产总体来说也只会越分越少。所以,二子和三子通常分不到什么就被赶出家门。不过,富裕的家庭一般会让他们接受教育,这相当于是给予了他们另一样财富。所以在明治以后,二子和三子离开家门后,他们通常会去到城市,在促进核心家庭形成的同时,还成为了支撑产业化的优秀人才。

不管怎样,这项制度在第二次世界大战后的战后改革中就被废止了。由此,长子、二子和长女、二女都得以均分财产。但是家长制带来的“家长意识”似乎在战后仍深深扎根于人们心中,农村地区尤其严重。这种意识为日本人带来的深远影响体现在生活、习俗等社会关系的模式上,可能也正因如此,离婚率始终维持低水平。说白了,就是早战前的家长制下离婚的女性的悲剧仍深深影响着现今的人们。无法适应婆家家风或生不出孩子的女性通常会被丈夫单方面提出离婚,然而,事情并不那么简单,被休的女性自不必说,连休妻的男性也会感到脸上无光而不得不艰难地生活下去。由此可以看出,离婚是个最坏的选择,这一观念依然根深蒂固。

话虽如此,当前的情况已经有了很大的改变,离婚申请者的女性比例正逐渐升高。所以我认为,今后的离婚率将会逐渐增高。


家父長制度の解体

今日は、「家父長制度の解体」についてお話します。

その前に、まず、資料1のグラフをご覧ください。これは、日本の離婚率の推移を示しております。一般に、離婚率は近代化の進行とともに増えるといわれてるんですけど、日本は今より明治時代のほうが多かったんっです、昭和になってからは、むしろ減ってるんですよね。ま、最近、多少増える傾向にはあるんですけれども、それでも、国際的に見れば、またそれほどでもない。

それで、よく、日本には離婚しにくい法律でもあるんだろうといわれるんですけど、そんなことないんですよ。むしろ逆です。日本では、「協議離婚」という、非常に簡単に離婚できる手段があるんです。離婚の9割以上はこれで簡単に済ませてるんですけどね、なぜか少ない。幸せで満足してる夫婦が多いのか、それとも、離婚することに、やはりまだ抵抗感があるのか。

ま、それはさておいて、まず、この明治期に離婚がなぜこれほど多かったのかということなんですけど。これは、やはり「家父長制度」の影響だといえるでしょうね。家父長制度というのは、近代以前の、家計と経営がまだ分かれていないごろの、農業社会の制度なんですけど。日本では、この近代以前の封建的な制度を、わざわざ近代になってから、1896年、明治29年にです目、明治民法で法的に制度化したんです。それで、日本の家族や農村は近代化が遅れたと言われてるんですけどね。

でも、ま、近代以前の社会では、この制度は、農村でも都市でも非常に機能的に作用したんです。なんと言っても、家の財産が長男一人に相続されますからね。長男の、家長としての権限は絶対的なものとして、代々その土地や財産が分割されることなく、受け継がれていくんですね。たとえば、武士の場合、その身分は分割できませんし、領地や家来も分割してしまったら、勢力が弱まりますからね。それは避けなければならない。農民の家は農地や家屋敷で、商人の家は家屋敷と資本、そして「暖簾」といわれる営業上の権利ですから、分割は可能なんですけども。でも、これを次男や三男にも平等に分けるとすると、家の財産は一代でよほど増やさない限り、少なくなるばかりですよね。だから、一般に、次男や三男は何ももらわずに放り出された。ただ、裕福な家の場合は、わかりに教育を受けさせてもらったんですね。出、こういう次男や三男が、明治以降は都市に出て、核家族を形成するとともに、産業化を担う(になう)有能な人材となっていったわけなんです。

ともかく、第二次大戦後の戦後改革で、この制度は廃止されました。そして、長男も次男も、長女も次女も、子供は平等に財産を分け与えられることになったんです。でも、この制度のもたらした「家意識」というものは、戦後になっても、特に地方では、いまだに根強く残ってるようですね。日本人の日常的な、慣習的な社会関係のパターンに深く影響を及ぼしてる。そういう意識が、離婚率を下げてるのかもしれません。つまり、戦前の家父長制度の下で離縁された女性の悲劇が、代々染み付いている。嫁いだ家の家風に合わなかったり、子供ができなかったりした女性だけでなく、その家族も肩身の狭い思いをして生きていかねばならなかったわけですから。離婚は最悪の選択(せんたく)だという考え方が、強かったんでしょうね。

ま、でも、それも今は大きく変わってきてますね。今は、離婚の申請者は、女の人がどんどん増えてますし。やはり、だんだん離婚率は高くなっていくでしょうかねえ。

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